HANS
―闇のリフレイン―


夜想曲4 Zimmer

3 空白の時間割


それから2日掛けて精密な検査が行われた。が、特に異常は見つからなかった。記憶だけが子ども時代に戻ってしまっていることを除けば……。
そんな彼をどう扱えばいいのか、最初は皆、戸惑いを隠せずにいた。が、彼は礼儀正しく、素直で可愛い子どもなのだと、徐々に認識するようになった。

「ほら、ルイ。ウサギのぬいぐるみ買って来たぞ」
美樹の父はルイが欲しいと言った物を何でも買ってくれた。
「Wah! Danke. ありがとう、 お父さん」
彼はぬいぐるみに顔を押しつけて喜んだ。
「ルイの好きなプリンアラモードも買って来たのよ」
母も言った。
「とってもおいしそう! お母さんも大好き!」
そう言ってルイは二人に抱きついてキスをした。

「もうっ。二人共、ルイに甘過ぎよ」
美樹が言った。
「いいじゃないか。こんなに喜んでるんだし……」
「そうよ。2週間も食べられなかったんだもの。ルイは食べ盛りなんだから病院の食事だけじゃ足りないわよね」
母もそう言って笑う。
「はい、これ。美樹にもあげる」
ルイが箱からプリンを取って一つ差し出す。以前と変わらない微笑みで……。

はじめのうち、彼は自分が大人になっていることを不思議がり、身体の傷に怯え、鏡を見るのをいやがった。が、学校に行かなくてもいいのだと知るとようやくそれを受け入れた。
「ルイは学校が嫌いなの?」
美樹が訊くと彼は少し俯いて言った。
「みんな、ルイのこと悪く言う。いやなこと言う。いっぱいしてくる。だから嫌い!」
泣きそうな顔で訴えた。美樹はそんな彼をやさしく抱き締めて言った。

「大丈夫。もう誰もルイをいじめたりしないよ」
「ほんと?」
「そうよ。もしルイが誰かにいじめられそうになったら、わたしが守ってあげるから……」
その言葉に安心したのか、彼は甘えるように彼女に腕を絡ませた。
(何だか可愛い……。子どもってこんな風なのかしら?)

ハンスはもともと童顔で子どもっぽいところがあった。故に身体は大人の筈なのに、まるで違和感を感じさせなかった。
(不思議だわ)
ルイの微笑を見た者は皆、彼を庇い、やさしくしてあげたいという気にさせた。


「それで、どうするつもりなんだ?」
病棟のロビーで飴井が訊いた。
「どうするって?」
美樹が聞き返す。
「もし、このまま奴の記憶が戻らなかったらさ。おまえが一生あいつの面倒を見てやるつもりなのか?」
「戻るかもしれない……」
美樹は言った。
「だが、可能性は薄いと医者が言ったんだろ?」
「でも、あの医者は意識が戻るかどうかって時にも可能性はほとんどないって言ったのよ。それでも、彼は帰って来た。だから、今度だってきっと戻って来る。少なくとも、わたしはそう信じているの」
自動販売機の音だけが静寂を破って振動している。
「信じたいのはわかる。だが、もっと現実を見た方がいいんじゃないのか? 幸い、まだ籍だって入れてないんだ。よく考えた方が……」

「なら、進ちゃんはどうしろと言うの? 今更ハンスを放り出せって言うの?」
「そうは言ってないさ。ただ、奴には兄弟だっているんだし、ドイツに帰れば親戚だっているんだろう?」

――僕はもう、ドイツに帰ったところで居場所がない

「彼にはわたしが必要なのよ。今更帰すなんてできない」
「美樹……」

「ルイはね、素直ないい子よ。わたしや両親によくなついているし、このままだって構わない。わたし、ずっとあの子の傍にいてあげたいの。ルドだってきっと協力してくれると思う。それにお父さんなんか、まるで孫でもできたようにルイのこと可愛がってるのよ。わたしだって今更ルイと離れるなんてできない」
「現実はそんなに甘くない」
飴井が言った。

「そうね。多分そうだと思うわ。でも……。ルイは特別なの。亡くした子どもの代わりに、きっと神様が授けてくれたのよ」
彼女は過去に一度流産した経験があった。その傷がまだ完全に癒えていないのだと、飴井は今になって思い知らされた。
「わかった。美樹がそこまで言うのなら、おれはもう何も言わない。だが、もし何か心配事が起きたり、悩み事があったりした時には、いつでも相談してくれ。俺にできることがあれば力になるよ」
飴井はそう言うと席を立った。
「ありがとう。覚えておくわ」
美樹も立つと病室に向かった。


その翌日。2月4日にルイは退院した。彼が家に帰りたがったのと、病院での治療の必要がなくなったからだ。あとは定期的な経過観察と週に一度のカウンセリングで対応するという方向で話が落ち着いた。

金髪のウィッグとブルーのコンタクトを付けた彼は、ハンスでいた時よりもずっと愛らしく、幼い少年のように見えた。
「どうしてこれを付けなきゃいけないの?」
ルイは不思議がったが、その方が似合うからと言って納得させた。彼はじっと鏡に映った自分を見て言った。
「ドイツでもこうすればよかった。そうしたら、ぼくの髪が黒いからって母様にいやなこと言う奴もいなくなったのに……。ぼく、これを付けてドイツに帰るよ。そうしたら、きっと母様も喜んでくれると思うの。そうしたら、意地悪なこと言ったおば様達に言ってやるんだ。ぼくはもう、黒くなくなったんだって……」
「ルイ……」
それを聞いた美樹は、異国に嫁いだ彼の母親にも苦労や悩みは多かったのだなと思った。

「帰る時には飛行機に乗る?」
彼が訊いた。
「いいえ。車よ」
「運転手が来るの? ぼくはアウグストに来て欲しいのだけれど……執事のヨハンが来るかもしれないね」
しかし、来たのは平凡な日本人のタクシー運転手だった。
「初めての人だ。そうか。今日はみんな忙しいんだね」
彼はがっかりしたようだったが、病院を出られたうれしさに釣られ、大人しく車に乗った。


家まではタクシーで15分。ルイは自動で開閉する車のドアを珍しがった。外国では手動式のドアがほとんどだからだ。
(本当に忘れてるのね。日本に来てからはすっかり慣れていたのに……)
単に思い出せないだけなのか、それとも本当に子ども時代へと精神がトリップしてしまっているのか判断は難しかった。が、どちらにせよ、今は彼はルイという8才の子どもとしての感性そのままに生きていた。

「お家は?」
先に車を降りた彼が振り向いて訊いた。
「ここよ」
彼女がドアを開ける。
「ここ……美樹の家?」
彼は怪訝そうに訊いた。
「そうよ。どうしたの? 寒いから早くおうちに入りましょう」
笑って手招いたが、ルイは少し渋ってべそをかいた。それでも、何度目かの呼び掛けで、ようやく彼は中に入った。

家では美樹の両親が喜んで迎えてくれた。
「おお、お帰り、ルイ」
「今日はお祝いだから、ルイの食べたい物、何でも作ってあげるわよ」
「ありがとう」
彼は二人にキスして抱き合ったが、どこか寂しそうな顔をした。
「どうしたの?」
美樹が訊いた。
「ぼく、お家に帰れると思ったの。ぼくの本当のお家に……」
彼はドイツの自分の家に帰れると思っていたようだった。それが、日本の美樹の家に連れて来られたのでがっかりしていた。が、床を駆けて来る猫を見て顔を輝かせた。

「Katze! (猫だ!)」
「ああ。ピッツァよ。もう1匹黒い猫もいるわよ」
「ほんと? もう一ついるの?」
「ほら、ソファーの下から覗いてる」
先にたって歩きながら美樹が言った。が、彼の関心はもう別のところに移っていた。
「Meer! (海!)」
リビングの窓からは一面に海が見渡せる。ルイは走ってその窓辺に近づいた。
「Wunderbar! (すごーい!)」
「どう? 気に入った?」
美樹が訊いた。
「Natuerlich! (もちろんだよ)」
彼はゆっくりと振り向いて頷く。その目にまた別の関心物が飛び込んだ。

「Ein Klavier! (ピアノ!)」
彼は叫んだ。そしてまた、走ってピアノの前に行くと蓋を開けた。
「Darf ich das Klavier spielen? (弾いてもいいですか?)」
「もちろんよ。これはあなたのピアノなの」
美樹が言った。
「ぼくの?」
「そうよ。だから、好きな時に好きなだけ弾いていいのよ」

ルイは喜んで鍵盤を叩いた。彼の指が触れるとそこから淡い光の精が飛び出して、彼の周りで楽しそうに踊った。彼はショパンの練習曲を1曲弾くとうれしそうに叫んだ。
「すごい! 今まで届かなかったところまで全部指が届くの。それに、前よりずっと早く弾ける。指が思った通りに動くから何だって弾ける。これならもう、先生なんかいらないや」
ルイはすっかりご機嫌になって、いつまでもピアノを弾き続けた。美樹も両親も、その音色にうっとりと聞き入った。
腕は全然衰えていなかった。むしろ子どもの頃の初々しい感性と年を重ねて円熟した技術が、天井に仕込まれたモザイク模様のように調和して快く響いた。

「アゥッ……!」
弾いている途中で突然、ルイが悲鳴を上げた。美しい旋律はたちまち悲しみの不協和音で歪んで行った。
「ルイ! 大丈夫?」
慌てて美樹が駆け寄ると、彼は左手を押さえて唸った。
「Meine Hand! (手が……!)」
彼は苦痛に顔を歪めた。
「無理をしては駄目よ。まだ身体が完全じゃないのよ」
美樹がやさしく摩る。
「Warum? (どうして……?)」
「あなたは事故に遭ったのよ。だから……」

「治らないの?」
泣きながら彼が訊いた。
「ううん。そんなことない。だんだんとよくなるわ。だから、焦らないで……ね?」
「……うん」
頬に伝う大粒の涙……。触れる彼女の手の温もりがさらに彼の心を熱く濡らした。その行方は透ける窓の向こう側。青い水平の海に沈んで消えた……。


「ルイ、おまえの好きな和菓子もあるんだぞ。さあ、こっちに来てお食べ」
父が呼んだ。
「ぼくが好きなお菓子って?」
ルイは意味がわからずきょとんとしていた。が、父が包みを広げて見せると歓声を上げて駆けて行った。
「Wunderbar! 素敵! お花みたいだ」
先程まで泣いていたことも忘れ、ルイは梅の花の形をした和菓子をもらって大喜びした。そんな彼の足下に猫達もじゃれつく。
「ふふ。何だか急に賑やかになりそうね」
それを見て美樹も微笑む。


その日の夕方。ルドルフも訪ねて来た。
「退院できてよかったな」
兄は花束を持って来てくれた。しかし、ルイは美樹の後ろに隠れてその腰にしがみついた。
「どうしたの? ルイのお兄さんじゃない」
美樹が前に出そうとするが、ルイはぴたりと張り付いて動こうとしない。

「だって、父様に似てるんだもの。怖い」
「ルイのお父様はそんなに怖いの?」
「……怒ると怖い……。それに……」
「それに?」
「父様はきっとぼくが嫌いなんだ。だって、父様が愛してるのは母様だけなんだもの」
そう言うと、ルイは泣き始めた。
「そんなことないと思うよ。きっとお父様だってルイのこと愛してる。それをうまく言えないだけなのよ」
「いやだ!」
彼は拒絶した。
「だって、 この人の背中には、ガイストがいる! きっとルイを食べちゃうよ! きっと美樹も食べられちゃう! いやだ! 怖い! 怖い! 怖い!」
「大丈夫よ。もし、悪いガイストが来たとしても、わたしが守ってあげるから……」
美樹はそう言うと、やさしくルイの背中を撫でてやった。が、彼はその手を払ってリビングの奥へと駆けて行ってしまった。

「ルイ! 待ちなさい! ルイ……」
美樹があとを追おうとするとルドルフが止めた。
「放っておけ」
「でも……」
美樹がその顔を見上げる。が、その表情までは見えなかった。
「どちらにしても長居はできないんだ」
そう言うとルドルフは小声で言った。

「サイクロプスは一旦国へ引き返したようだ。奴を雇った連中はハンスが死んだと思っている。だが、油断はするな。外出する時には念のため、防弾チョッキを身に付けるんだ。いいな?」
「わかった」
美樹は神妙に頷いた。
「当分の間、護衛を付ける。あの様子ではハンスは当てにならないだろうからな」
「ええ。でも、あなたも気をつけて」
「ありがとう。また来る」
そう言うと彼は玄関を出て行った。

「あら、ルドルフが来てたんじゃないの?」
美樹がリビングに戻ると母が訊いた。
「ええ。でも、忙しいからまた来るって……」
彼女の姿を見ると、ルイが駆けて来て抱きついた。
「ルイ、お兄さん、寂しがっていたわよ」
美樹に言われると、彼はしゅんとして顔を彼女の肩に押しつけた。
「どうしてルドルフがぼくのお兄さんなの? だって彼は大人だよ。ぼくよりうーんと大きいのに……。父様と同じくらい大きいよ」
「でも、お兄さんなのよ」
それを聞いたルイは不思議そうな顔をした。


それから、美樹の生活は一変した。すべてがルイを中心に動き始めたのだ。
「ルイ、新しいおもちゃが届いたの。一緒に遊ぼうか」
「Was ist das? (これは何?)」
「テレビゲームよ。一緒にやらない?」
「おもしろそう! でも、ぼくはお月さまの積み木で遊びたい」
彼が選んだのは前からピアノの上にあった木製の積み木だった。
「あら? あと一つ、緑色のがあったんだけど……。そうか。畳の部屋の方か」
「畳の部屋? じゃあ、ぼくが取って来る!」
そう言うと彼はそちらに駆けて行った。が、なかなか戻って来ないので、心配になった美樹が入って行くと、ルイはリビングボードの前で固まっていた。
「見つからない? ほら、そこのサボテンの鉢の隣にあるじゃない?」
美樹が言っても、彼は動こうとしなかった。ただ一つの物に視線が注がれている。

「あれは何ですか?」
ルイが固い声で訊いた。
「ああ。だるまよ。お正月に買ったのよ。願いを叶えてくれる縁起のいい置物なの」
「捨てちゃって!」
ルイが叫んだ。
「怖いの! この目がじっとぼくを見つめて……怖いんだ! 怖いよ! 捨てちゃって……!」
そう言うと彼女にしがみついて激しく泣いた。
「わかった。わかったから、ね? もう泣かないで」
ハンスも空白のままの白い目が少し怖いと言っていた。が、それ以上の何かが彼を怯えさせている。そんな気がした。

それから、美樹はだるまを彼の目の届かない場所にしまうとリビングに向かった。そこではもう機嫌を直したルイが積み木で遊んでいた。
「まあ、すごい。それはなあに?」
「虹のペガサスだよ。夜の空を駆けて行くの」
「ほんと。ペガサスに見えるわ。ちょっと待ってて。写真を撮っておくから……」
一瞬たりとも同じ時間がないように、子どもが描いた絵や積み木やブロック、粘土で作った造形も、その場限りの芸術なのだ。その一瞬の奇跡を、美樹は残したいと思った。
(子育てしているお母さんもきっと、こんな風に思うのかもしれない)
日々進歩して行く彼の好奇心や学習意欲を、美樹は大切にしてあげたいと思った。

それから、木製のアルファベートで、彼はよく遊んだ。簡単な文ならそれで作ることが出来るようになったとルドルフに話すと驚いていた。

――それはまさしく奇跡だな

実際、彼は元からあった障害の影響で、文字の認識が困難だったからだ。


「Was ist das? (これは何?)」
ルイは何でも訊きたがった。簡単な物なら片言のドイツ語と日本語を駆使して何とか説明できたが、なかなかうまく伝えられないこともある。美樹は電子辞書が手放せなくなった。
「人生の中で、今が一番勉強してると思うわ」
救いは、彼女がもともとドイツ語に興味があり、少しずつ学習していたことと、ルイの母が日本人であったため、彼も日本語がある程度使いこなせていたという点にあった。

「日本語の方が数は簡単だね」
ルイが笑ってそう言った。ドイツの小学校ではなかなか覚えられなかったという掛け算も、彼はたった2日で覚えてしまった。数の計算もすぐにマスターした。

「この子ってば天才じゃないかしら?」
美樹は本気でそう思った。が、訪ねて来た飴井達にそれを口にすると、
「美樹も案外親馬鹿だったんだな」
と笑われた。
(親馬鹿か……。ほんとにそうかもしれない。でも、いいの。今はルイのことがこんなにも可愛い。それだけで十分だわ)
美樹は幸せだった。ルイが望むことなら何でもしてあげたいと思った。

仕事も順調だった。1月から始まったアニメの延長も決まり、さらに4月からは新たな企画が持ち上がっていた。
――「それで、次の脚本をお願い出来ますでしょうか?」
「はい。もちろんです。ありがとうございます。では、どうぞよろしくお願いします」
電話を切ったあとも、しばらくは気分が高揚し、空が薔薇色に見えたほどだ。
と、その時、猫のぎゃあっという声とルイの悲鳴が聞こえた。

「何? どうしたの?」
慌てて駆けつけると、ルイがカーペットの上に座り込んで泣いていた。右手にハサミを持ち、左手の甲には傷ができていた。
「まあ、血が出てるじゃない。大丈夫?」
「リッツァがぼくを引っかいたの。ぼくはただ、猫の髭が長くなったから切ってあげようとしたんだよ。それなのに、リッツァが怒って……爪を出して引っかいたの」
ルイは主張した。が、美樹は傷に薬を塗ってやりながら静かに言った。

「でもね、猫はちがうのよ。猫にとって髭はとても大切なものなの」
「でも、男の人は髭を剃るでしょう? それに、ぼくも髪が伸びると切らないとなの。美樹も髪を切るでしょう? どうして猫は切らないの?」
「猫の髭はレーダーなのよ。自分の体が通れる幅があるかどうか髭の長さと比べて測ってるの。だから、髭を切ってしまったら猫さんは通れるかどうかわからなくなって迷ってしまうの。ルイだって、いきなり誰かに捕まって髪の毛を切られたらいやでしょう?」
「わかりました。もし、ハサミのガイストに追いかけられたらぼくだって怖いもの。ぼく、もうしません」
「いい子ね、ルイ」
美樹はそう言うと彼を抱き締めた。


ある日の午後、美樹は隣の白神夫人に呼び止められて、ハンスのことをあれこれ訊かれた。回覧板を渡してすぐに戻るつもりだったのに、結局30分近くも立ち話をしてしまった。
「ルイが心配してるかも……」
急いで家に戻ったが、彼の姿はどこにもなかった。
「変ね。一体どこへ行っちゃったのかしら?」
美樹の脳裏に不安が過ぎった。
「まさか、外に行ったんじゃ……」
彼は外に出たがっていた。外出する時には常に護衛が付いた。両親が動物園に連れて行ってくれた時にも、マイケルが同行してくれたし、ショッピングセンターに行く時でさえ、必ず誰かが付き添ってくれた。

「ルイ! どこにいるの? 返事をしてちょうだい!」
地下室まで降りて調べたが、彼の姿はどこにもなかった。

「いやよ。ルイ……。あなたにもしものことがあったら……」
念のため、もう一度2階に上り、すべての部屋を見て回った。が、寝室にもゲストルームにもいない。そして、書斎にも……。

「ルイ……」
その時、どこかから彼の笑い声が聞こえた。彼女ははっとして書斎のドアを開けた。声はそこから漏れて来る。
「まさか……」
彼女は机の脇のチェストが少しずれていることに気づいた。そこには隠し扉があった。彼女しか知らない急な階段が中二階の小さな部屋まで伸びているのだ。声はそこから聞こえて来た。美樹はゆっくりと階段を降りて行った。

「ルイ……。そこで、何をしているの?」
強張った声で彼女が訊いた。そこには、様々な玩具や子ども用の衣服。それに絵本やぬいぐるみが散らばっていた。
「遊んでたの」
ルイが振り向いて言った。
「遊んでたって?」
「男の子と」
明るい照明の下でルイが微笑む。壁には愛らしい動物の絵が飾られ、机には、空白の時間割表が貼ってあった。小学1〜3年生用の教科書も並べられている。しかし、そこに子どもの姿はなかった。
「ここにいる男の子も、美樹のことが大好きなんだって……」
「そう」
ルイは絵本の棚にあったオルゴールの蓋を開けた。途端に金属的な音色が部屋の中に響いた。彼は鏡面に付属のバレリーナ人形を乗せる。すると、人形は「エリーゼのため」の曲に合わせて回転を始めた。

「……ここに来てはいけなかったのよ」
美樹が言った。
「どうして?」
「ここは、わたしの赤ちゃんのお部屋だから……」
天井には取り付けられたままのツリーメリーも飾られていた。
「赤ちゃん? でも、大きいよ」
「そうね。今年で丁度8才になるの」
「それじゃ、ルイと同じだね」
「そう。ルイと同じ……」
そう言うと、彼女は涙を流した。ルイは、そんな彼女と回り続ける人形を見ていた。
やがて、オルゴールのゼンマイが切れて曲が止まり、部屋の中に静寂が訪れた。が、美樹の瞳からはまだ涙が流れ続けていた。

「どうして泣いてるの?」
「……」
「怒ってるの? ぼくが勝手にこのお部屋に入っちゃったから……」
彼はバレリーナをそっと元に戻してオルゴールの蓋を閉めた。それから、美樹に抱きつくと、その胸に顔を埋めて言った。
「ごめんなさい! ぼく……。そんなに悪いことと思わなかったの。美樹がいなくて、お部屋の前を通ったら、男の子がぼくを呼んだの。だから、ここに入ったんだよ。知らなかったんだ、本当に……。悪いって知らなかったの」
ルイは必死にそう訴えた。見ると彼の瞳からも涙が溢れている。

「あなたには見えるのね、ここにいる男の子が……」
「うん」
「それはガイストみたいなもの?」
彼が頷く。
「いい子のガイスト」
ツリーメリーが微かに揺れる。

「ごめんね。ほんとは寂しかったのかもしれないね。こんな所で、独りぼっちで……」
(いくら毎年新しい洋服やおもちゃを買っても、いくら教科書を揃えても、時間割はいつも空白のまま、アルバムに新しい写真が増えることはない。もう決して還って来ないわたしの小さな命……)
「だったら、ぼくが友達になってあげる」
ルイが言った。
「そうね。でも、ここの階段は急で危ないから、少しおもちゃを上に持って行きましょう。ほら、この日本地図パズルなんてのはどう?」
「うん。おもしろそう!」
美樹は、それまで一度も手を付けていなかった玩具の幾つかをルイのために持って上に上がった。

リビングにそれらを広げると、早速ルイが遊び始めた。
「お魚みたい……」
北海道の形が気に入ったルイは、木製のパズルを何度も崩しては1番先にそれを見つけて喜んだ。
「ドイツはどこにあるの?」
「ああ、これは日本地図だから……。今度は世界地図のを買いましょう」
「それなら、ドイツもある?」
「ええ。一緒に探してみましょうね」
「ドイツ……どこにあるの? 早く探して帰りたい!」
そう言ってまた、彼は泣き始めた。美樹はそんな彼をただ抱き締めるしかなかった。が、やがて顔を上げるとルイが言った。
「でも、今はまだ帰りたくない」
「どうして?」
「帰ったら学校に行かなくちゃいけないもの。みんなが言うんだ。ぼくが、アナのリボンを盗ったって……。ぼく、盗っていないのに……」
彼は泣きじゃくりながら訴えた。

「アナはきれいなリボンを持っていて、とても似合ってたの。確かにぼくはそれが欲しいと言ったけど、ぼくじゃないの。ゲルドが木の枝に結んだんだよ。ぼくは見たんだ。だから、返してあげようとしたんだ。その木はとても高くて怖かったけど、何とかリボンを解くことが出来たの。でも、枝が折れて……。ぼくは病院に運ばれて、それで先生と父様が怒ったの」
「どうして?」
「ぼくがそのリボンを持っていたからだよ」
「ちゃんとそのことを話したの?」
「言ったよ! でも、信じてくれなかったんだ! 母様だけは信じてくれたけど……。父様はそんな母様をぶったの。おまえの育て方が悪いって……。母様は悪くないのに……!」
彼は激しく床を叩いて叫んだ。
「私は信じるよ。ルイの言ってること。全部信じる。少なくとも、わたしはルイの味方だからね。あなたのお母様と同じように……」
「美樹……」
「お父様にもね、ちゃんと言ってあげる。ルイは嘘なんか言っていませんって……。今度会ったら、きっと言ってあげるから……」
「美樹……ありがとう」
彼は少し泣き笑いすると、彼女に抱きついてキスをした。いつか、彼の父親に会ったら……。本当に言ってやりたかった。しかし、そんな日は来ないだろうと思うと、涙が滲んだ。